マルセル・デュシャン が「網膜的」と否定した絵画はクールベを代表とした写実主義以降の絵画、彼の言葉を借りるなら「印象主義、フォービズム、キュービズム、抽象絵画」、19世紀から20世紀の絵画史を全て否定する事になる。それでは、デュシャン が肯定する芸術とはどのようなものだろう。網膜的絵画とは、簡単にいえば「目の快楽だけを追求している」美術のことである。デュシャンにとっては、目から快

「網膜的絵画」とはマルセル・デュシャンが絵画を否定的に見る際に使われる言葉である。「印象主義の到来以来、視覚的作品は網膜でとどまっている。印象主義、フォービズム、キュービズム、抽象絵画などと言っても、必ず網膜的な絵画だ。色彩反応云々といった物理的配慮のために、脳組織の反応が二次的なものに貶められている。」「網膜があまりに大きな重要性を与えられているからです。クールベ以来、絵画は網

後期印象派の巨匠といえば、私の場合にはポール・セザンヌという画家が先ず頭に浮かびます。セザンヌは、後期印象派にカテゴライズされています。セザンヌの作品は、ややもすると難解な印象を与えます。独特の縦や斜めのサクサクしたタッチ、画面に堂々と残した塗り残し。一般的に後期印象派の代表的な作家はゴッホとゴーギャンあたりではないでしょうか?この二人は、物語にしやすい逸話が豊富にあります。ゴッ

絵画の歴史について語る以上、自らの作品についても何も語らない訳にはいかない。私の表現は、「ポストモダンの時代に、絵画が如何なる価値や美を創造し得るか」自らの問いについての回答である。「誰が絵画を殺したか?」で述べたように、絵画を殺した者は、作家であり、評論家であり、その時代に蔓延した空気のようなものではなかったか?しかもその空気の元を辿って行くと、実はイデ

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芸術と戦争

戦争画松本清張の小説に「砂の器」という小説がある。映画にもなっているが、劇中にこんなやり取りがある。和賀の正式な婚約者田所佐知子とその父でもと大蔵大臣の田所重喜との会食の席上-婚約者の父である田所が和賀に言う。「まあ、好きなようにやりなさい。できることは何でもするから・・・」これに対して佐知子は和賀を振り返って言う。「大丈夫よ、英良さん、今度はすご

前回の内容で、芸術は政治や経済の中に含まれるもので、社会を超えるものではないと書いた。「こんなことはあたりまえ」とおっしゃる方が多いとは思うのだが、芸術にどっぷり入れ込むと、これが真逆になってしまうのだ。かく言う私も芸術を極端に特殊な世界だと思っていたことがあった。よく変わった人を「彼は芸術家だから」という表現を使うことがある。その背景には、「芸術家は少し普通の人とは変わっていて、だか

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