LIFE

私の履歴書

私は、大学を卒業してから教職につきました。教師になった理由は、いくつかあります。当時の私は社会に出ることに対してなんだかわからない不安がありました。今から思うと考えが狭かったと思います。教職は、学校という場所が職場になります。私は「学校」という場所が、実は好きだった気がします。また教職は制作を続ける上で、比較的『楽な』仕事だと思ったからです。民間企業は残業やノルマがあり、神経をすり減らすといったイメージがありました。その点でいうなら、教師をしながら絵を描くことは、難しいとは思いませんでした。しかしながら、私は、教師として働いた11年間に、自分の作品だと自信を持って言える様な作品は、作れませんでした。37歳で教師を退職し、実家の輸入会社を手伝うようになりました。転職とともに制作から遠ざかりました。この頃は表現したいと言う焦りがありながら、何を描いて良いのかさえわからず、キャンバスを見つめながら時間だけが過ぎていく。そんなことを繰り返していました。

仕事は、海外出張が多く、語学力が必要でした。生きた英語を聞く必要があると思い、英会話の学校に通いました。また体を鍛えることを心がけ、週に何回かジムに通うようになりました。

年間に20回近く海外に出張することになり、自分の中で制作について考える時間は減りました。仕事で得られる充実感に比べて、公募展に出品することもなく、明確な目標がないこともあり、制作をする気持ちはどんどん減っていきました。そしていつの間にか、制作のことを忘れるようになりました。いや、実際は制作のことは気持ちのどこかにありました。なんと言ったらいいでしょう。やらなければいけない課題を机の中にしまったままでいるというような後ろめたい感じ。別に制作しようが、しようまいが誰かが文句や称賛を与えるわけではありません。でも私は自分の生活に満足感を得たことがなかったのです。仕事では、確かに成果を上げていました。自分が見つけたメーカー、商品は順調に売り上げを伸ばしていました。その当時、私の生活は、家と会社とジムを往復する毎日でした。

私が再び制作に向き合ったのは、44歳の時です。当時の私は、深刻な病を抱えていました。当時の私は失意のどん底にいましたが、妻が献身的に支えてくれました。そのおかげで、また新しくやり直そうという気持ちになりました。それらは全て、妻のおかげです。

私は妻に正直に話しました。「俺、本当は画家になりたいんだ。」彼女は一言「そうなの」と言いました。後から聞くと、「この人は一体何を考えているんだろう。作品も作ってないし、いい歳してそんな夢みたいなことを言って」と思ったそうです。

でも私にとって妻に言った言葉は大きかったのです。誰かに言うのと、言わないのとでは、全く違うと言うことを身をもって知りました。

私たち夫婦は、借家生活をしたのち、新居を構えることにしました。新居にはアトリエを作りました。アトリエを持つことは、私にとって長年の夢でしたので、できた当時はアトリエに入り浸っていました。制作はしていましたが、今のように朝からアトリエに入って仕事をすると言うような真剣なものとは程遠いものでした。

そんな私が、制作に没頭するような生活に変わったのは、「  」のせいです。

とにかく一作、自分の作品と言い切れるものを作り上げる。それは明日出来るかもしれないし、何年後かもしれない。一生作れないかもしれん。大切なことは、信じること。自分には絶対に作れるという信念を持つ。そして明日死ぬかもしれないと思つて日々を過ごすこと。僕は55歳まで自分の作品と呼べるものは作れなかった。色々な事を試したし、別の道に逸れた事もある。仕事を制作ができない言い訳にしていた事もある。病を患い、絶望し、人生を悲観した事もある。

今は、自分の人生で体験した全てのことを受け入れて、画業に打ち込みたいと思う。

コメント

この記事へのコメントはありません。

CAPTCHA


関連記事一覧

TOP